太宰と津軽森林鉄道
気軽に行くには津軽半島はあまりにも遠すぎた。
このままだとずっと行かずに月日が過ぎ、
「一生行かないのではないか」と思い始め、
意を決して車を北に走らせた。
酒井が保存されている場所は五所川原市金木町だが、
近くまで来ると、想像していなかった大渋滞に
巻き込まれた。渋滞の原因はあの「斜陽館」だった。
そう、言わずと知れた太宰治(本名津島修治)の
生家である。
そのまま渋滞に導かれて「斜陽館」に着いてしまった。
しかしこんな辺鄙な土地なのになんという大邸宅だ。
信じられないくらい大きい。それもそのはず、
津島家は青森県でも有数の名士の家だった。
ここで生まれ、自ら命を絶ってしまった
太宰の生い立ちを俄然知りたくなった。
太宰の生まれは1909年である。
ちょうど生誕100年だ。
津軽森林鉄道の最初の区間である蟹田-薄市間が
開通したのは1908年、全線開通は1910年だ。
ほぼ同じ時期だ。勿論金木町も重要な拠点だった。
おそらく太宰治は津軽森林鉄道を見ながら
育っていたのであろう。
現在の金木駅には森林鉄道の痕跡はまったくない。
太宰が幼い頃に生家の近くでいつも見ていた
森林鉄道についての記述を、彼は残していない。
芥川龍之介が小田原から熱海へ行く人車軌道を
小説に書いているが、
太宰の書いた林鉄の印象を読んで見たかったと思う。
斜陽館を出て酒井の置かれている場所へ行ってみる。
ブルーに塗られた酒井は、木曽等の緑色を
見慣れている自分にとっては新鮮に映った。
太宰の小説「斜陽」は神奈川県小田原市の「雄山荘」に
住んでいた時に書かれている。一緒に住んでいた
太田静子の日記を元に書かれたのは有名な話だ。
津軽から帰ってきてしばらく経った後、
「雄山荘」にも行ってみた。
朽ち果てた和洋折衷の邸宅は、
没落華族を描いた場所にふさわしい雰囲気だった。
ところが、そのすぐ後に放火によって
雄山荘は焼けてしまった。
心無い人間の仕業によって太宰の暮らした痕跡は
記憶の彼方に行ってしまった。
連結していた客車が焼け落ちてしまったと聞く。
なんだか嫌なつながりの話だが
幸い客車だけだったとの事で、
記憶の彼方に行かずに済んでいるらしい。
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