筑豊のこどもたち
筑豊本線飯塚駅のホームに降り立つと、
緑に覆われた小高い山が目に止まる。
稜線が穏やかに丸みを帯びた山で、
四国の里山を思い浮かべる様な懐かしい雰囲気だ。
だが、これが炭鉱の穴から掘り出された石で出来た
ボタ山とは、言われてみなければ分からないだろう。
操業当時は、別々の炭鉱会社の坑口から、
競ってこの場所へ石を吐き出していたそうだ。
手元に一冊の写真集がある。撮影者は土門拳。
急斜面のボタ山にへばり付き、
石の中に手を突っ込んで、選り落とした石炭を
拾いに来た、幼い子供の写真が載っている。
擦り切れたボロ布みたいな服をまとい、
急斜面から滑り落ちぬように、
必死にへばりついている。
その幼い子供の顔は無表情で、
今日生きていくのが精一杯である事を
物語っていた。
あの写真から50年以上経ったボタ山に登ってみた。
時計を見ると既に夕方の5時半を回っている。
仕事を終わらせた後とは言え、
何でこんな時間に登ったのだろうか。
写した写真よりはるかにあたりは薄暗く、
日没まであと僅かだ。
捨てられて廃墟になった神社の横を通り過ぎ、
坑口まで行って見る。
途中振り返って見ると、陥没して出来た巨大な穴に、
雨水が溜まって池と化した場所が見えた。
巻き上げ機だろうか。竪穴の出口に残っていた。
覗き込むと中は真っ暗だ。
あたりは薄暗くなってきていて、ぞっとする。
登り詰めると、藪の向こうにコンクリートで固められた
坑口が、無言で待っていた。
50年後の日本は豊かになったが、
あの貧しい子供たちも、
今は孫でも抱いて豊かに暮らしているのだろう。
まあ生き抜いていればの話だが。
夕暮れのボタ山を、そんな事を考えながら後にした。
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翌日は直方へ行ってみた。
以前友人のS氏から親切に教えてもらったKATOに
会いに行くためだ。
だが、KATOのいた場所は、
軽トラックや物置もろとも撤去されていて、
ただの草むらに帰っていた。
何度も違う場所ではないかと思ったが、
以前の写真と比較して、
やはりここに間違いなかったので、
呆然としてしまった。
気を取り直して、直方石炭記念館に足を向ける。
筑豊本線横の小高い岡の上に、
巨大なパンタグラフを載せたELが保存されている。
狭い軌道とは対照的に、ノッポのELは、
風が吹けば倒れてしまいそうであった。
筑豊の炭鉱は、
既に歴史の彼方へ消え去ってしまった。
2009年訪問
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