分からなければ「電鉄倶楽部」を見よ!あなたの知りたい事がここにあります。

もうどうにも止まらない。すべてのジャンルをすばらしい写真で飾る!

事実とはなにかをストイックに掘り下げる。

重装備を背に 俯瞰を極めるモノトーンの職人

アーティスティックな視線で捉えた世界が展開する!

知られざる情景を撮り続ける人達の記録

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2007年9月30日 (日)

お仕事中

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ちょっと大きいなあ・・・

これでもナローです。自動連結器付。

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2007年9月24日 (月)

宝物

「えー、きょうはみんなにないしょにしていたものをもってきましたあー」「こっちにあつまってくださあーい」

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「なーにがでるのかなあー」「なーにがでるのかなあー」

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「わあー、なんだーこれはあー」3_2007924

「あれー、うんてんしゅいないよー」

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「けっこうかっこいいじゃん」

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「しんでれらのばしゃみたい」

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「あれーうごかねえぞー」

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「ながめはいいわよー」「ほんとうだ、ぐーだね」

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「ちょっとねむくなっちゃった」

2007年9月23日 (日)

白昼夢

古いポジを整理していたところ、道端に鎮座した客車の画像が目に止まった。

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もう20年以上前だろうか。たまたま横の道を通っていた時に、視界に飛び込んできたのがこの客車だった。

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一瞬でそれが頚城鉄道の車両と分かったものの、なぜ新潟県でもない長野県のこんなところに置いてあるのか、不思議な思いが頭の中を駆け巡ったのを覚えている。

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20年以上前とはいえ、その当時でさえも頚城鉄道ははるか昔の話だ。もちろん現役を見れたわけでもなかったのに、突然目の前に「ホハ3」があるという状況に、頭の中の混乱は増すばかりだった。

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まぎれもなく「ホハ」だ。塗装がボロボロで、剥がれかけた塗料の上になんとか当時のマークや形式の文字が乗っかっている。

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あたりの雑草が車体を飲み込んで、隠すかのように覆いかぶさっていた。

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その後この場所の車両は跡形もなくなり、今振り返ると、まるで白昼夢ではなかったのかと思うような出来事だった。

2007年9月20日 (木)

伐採線

作業員が戻るまで静かに待機しています。

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2007年9月17日 (月)

へそくり

熱海駅前にある蒸気機関車は「雨宮鉄工所」(後の大日本軌道鉄工部、さらにその後の雨宮製作所)製とばかり思っていたが、どうやら違うらしい。

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雨宮敬次郎が結核の療養で熱海を訪れる際、国府津からの人力車が自らの病身に相当堪えた経験から、人車軌道の構想を持った、と言うのが「熱海鉄道」の前進の「豆相人車鉄道」の始まりだと伝えられている。人車鉄道開通は1896年。のち動力を蒸気化するのに合わせ、1905年に新たに「熱海鉄道」として生まれ変わった。ただし実際に蒸気が導入されたのは1907年であったらしい。

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熱海駅の前に展示してあるこの機関車は、当然同系列会社である「雨宮鉄工所」製と思っていたが、どうやら「越中島鉄工所」製であるらしい。蒸気化の時点と「雨宮鉄工所」の操業開始時期はほぼ同じであるが、実際には供給が間に合わなかったのであろう。蒸気機関車の発注先はボールドウイン1両、石川島3両、越中島2両、池貝鉄工所1両で、この越中島製の2両の内の1両が、今日残っているこの機関車であろうか。 ただ「池貝鉄工所」製という説もあり、説明版を見てもどこのメーカーのものか一切触れていない。

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「雨宮鉄工所」は1907年に操業を開始したが、敷地取得はなんと敬次郎の妻の、のぶ子のへそくりから支出したと伝えられている。なんともすさまじい話だが、敬次郎自体、元々資本家というよりは投機的相場師を貫き通した生涯であった所を見ると、これくらいの妻でなければ務まらなかったに違いない。

雨宮敬次郎をもう少し知りたくなってきた。

2007年9月12日 (水)

デュアルゲージ

・・・・には違わないけれど・・・・。

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2007年9月11日 (火)

下町の製紙会社

東十条駅をおりて住宅街を北東に歩くと、目の前に貨物線が突如現れる。

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ガチャン、ガチャンと連結器の響きと、ウイーンとうなるフォークリフトのモーター音が住宅街にこだまする。昔はどの町にもあった工場引込み線の音だ。

だが、ここは信じられないことに現在の東京23区の風景なのである。しかも山の手線のすぐ外側だ。

日通色の協三も、貨車の向こう側に見え隠れする。

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今日も東京の真ん中で、昭和の原風景を見ることが出来る。

2007年9月 9日 (日)

コーヒーブレイク

地元は意外と知らない、と気付かされる時がある。この存在を知ったのは趣味誌に記事が紹介された後だった。前の道は何百回と通っているのに。

もっとも学生時代の昔は軌道などに興味もなく、夜中まで遊んで、材木座海岸から昇る朝日を見ながら、海岸通りを原付で帰宅していた、などという生活だったので、仮に気が付いても反応を示さなかったのかもしれない。

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おそらく日本でここだけではないだろうか。おしゃれな椅子に腰を掛けて、おいしいコーヒーを味わいながら軌道を見れるのは。しかも店自体なかなか趣味のいいインテリアで、ガラス越しに見える軌道自体が店と一体化したオブジェのようだ。見るのではなく鑑賞の世界である。

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「これから配達だがね」

「気を付けてくださいね」

ちょっと前までは古きよき酒屋の雰囲気が残っていた。この三河屋の創業は明治33年、建物も昭和2年に建てられたもので、軌道も含めてよく原型を保っていると関心していた。

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ところがである。工事が突如始まった。いよいよお別れかと残念がったのだが、「形あるものはいつかは滅びる」という、ものの道理と諦め、シャッターを押して軌道とお別れをした。

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だがご覧の通りである。おしゃれな店と、その横に敷かれた軌道と、配達から帰って来た軽トラが軌道に沿って入って来るという、ありえない組み合わせの不思議な世界になった。

2007年9月 8日 (土)

シルバーシート

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「我々は営々と働き続けてきた挙句に使い捨てられたのだ。あなたも同じだ。いつかはわかる」。それは都電に立てこもった老人たちが、説得を試みた警備員に返した言葉だった。

1977年に起きた都電占拠事件の事である。彼らは戦災で家族を亡くした身寄りのない老人たちだった。結局何時間も立てこもったが、なんの要求も出さぬまま、翌朝全員が警察に投降した。

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実はNHKドラマ「男たちの旅路」の「シルバーシート」という作品の話である。特攻隊の生き残りの警備員役に鶴田浩二、立てこもった老人役には笠智衆、加藤嘉、殿山泰司、藤原釜足といったそうそうたる名優で演じられ、撮影は旧荒川車庫で行われた。第32回芸術祭大賞受賞作品だ。実はこのドラマは放映当時見たわけではなく、最近になってNHKアーカイブスで偶然見たのだが、見終わった後はなんとも言えない重い気分になってしまったものである。

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なぜ老人達は立てこもったのだろうか。フィクションという言葉で片付けられない現実感に、江戸東京たてもの園に保存されている、実際の撮影に使われた車両のシートに腰かけながら、思いにふける。いつか自分が老人になったらどんな思いを持つのだろうか。

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鶴田浩二をはじめ演じた俳優達も、既に全員鬼籍に入られた。

2007年9月 2日 (日)

住宅街のKATO

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出かける時はあまり下調べをしない。発見の楽しさを享受すると言えば高貴な時間となるが、行けば何とかなるだろう的安直な性格なので、下調べが出来ないと言った方がよさそうである。昔から「仕事は段取り8割が成功の基本」などと言われているが、「仕事ではないので、これでいいのだ」と間抜けヅラをして今日ものこのこ出かけて行くのである。

このKATOも以前探しに来たのだが見つからなかった。だが情けない事に、いったん来てしまうと往生際が悪く、きっぱりと引き上げもせず、あたりが暗くなるまでうろうろ捜していたのだった。後悔先に立たず。

「ちゃんとありますよ」と、後日会った友人のS氏が不思議そうに言っていたのも省みず、またしても何の調べもせずに来てしまった。

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KATOはあった。見つけ難かったのは、以前線路があった所に新しい住宅が建ち、迂回しないといけなかった為である。

多小荒れた姿と聞いていたKATOも、やや草が被さってきている他は、きちんと塗装がし直されて好ましい雰囲気だ。1067mmの線路幅に落ちてしまう様な小柄な車体の動く姿を見たかった。

2007年9月 1日 (土)

銀河鉄道

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「なに撮ってるの」

「電車だよ」

「ふーん」

賢治のふるさとの子は、なんだか不思議そうな目で話しかけてくる。

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馬面電車で知られるデハは、古びた建物の前にひっそりと置かれていた。周りを取り巻く金網がなければ、賢治が乗っていた当時もこんな感じだったのだろうか。

宮沢賢治の名は今でこそ知られているが、生前に発表された作品は、自ら製作した自費出版の2冊のみで、「雨ニモマケズ」などその数多くの詩は死後に発表されたものである。37年の生涯だった。

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貧しい少年が銀河鉄道に乗って宇宙旅行する幻想的な童話は、未完で終わった。

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