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知られざる情景を撮り続ける人達の記録

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2007年8月30日 (木)

黒い島

幕末の革命家というと坂本竜馬を筆頭に揚げる人が多いが、明治の世を見ずに、志半ばの33歳の若さで刺客に倒れた。この竜馬のつくった海援隊の負債処理を買って出たのが、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎だ。後の三菱財閥の創始者となる男である。

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長崎湾の出口に浮かぶ「高島」は、すでに江戸時代の元禄年間(1695)に、領民の五平太が偶然発見した燃える石をきっかけに、石炭を産出する島とし知られていたが、大規模に掘られるようになったのは明治の時代からで、特に明治14年に岩崎が買収してからは、更なる採炭の近代化が図られた。当時の写真でもわかるが、既に島には軌道が敷かれており、下手な国営鉄道(当時は官営)よりも長い歴史を有していた。

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廃止は昭和61年。その歴史よりも、生きた加藤製作所製の機関車が最後に活躍していた軌道と言った方が親しみやすいだろう。自分もその一人だ。そのKATOは、廃止後その地に出来た「高島石炭資料館」に保存された。

いや、保存されていたと言い直したほうがいいだろう。それは今回訪れた時に分かった。既にKATOはなくなっていたのだ。

資料館は開いていたが、関係者がいないので、ここを運営する高島教育センターにその場から電話し、KATOの行方を伺ったが、日曜日だったので事情を知る人も不在で、電話の向こうの女性が方々に当たってくれたが、結局分からずじまいだった。島なので、誰かが引き取って行くには地理的に難しく、解体されてしまったのかも知れない。

バッテリー機関車と坑内人車、給水車、炭車は残っていたので、気を取り直して写すが、はるばるここまで来て・・・という思いは消えず、なんともどっと疲れがでてしまった。

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気を取り直して少し島を歩いてみた。軌道は既にどこにも見当たらず、廃墟となった炭鉱宿舎の前面の敷地に、旧式のストーブが無造作に転がっているのみだった。人影もなく、東シナ海から吹き付ける風の音のみが耳をすり抜けていく。

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しばらく行くと港とは反対側の海に出た。

「もし坂本竜馬が生きていたら、三菱財閥ではなく坂本財閥になっていただろうなあ。そうしたら竜馬の後世のイメージも変わっただろうし、ここ高島炭鉱も、違った歴史を歩んだのだろうか・・・」と、波で破壊された防波堤の向こうの、軍艦島の廃墟を遠望しながら、とりとめのない妄想に耽るのであった。

2007年8月18日 (土)

いもこ列車へようこそ

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煤の香りと鉄に染み込んだ油の臭いが鼻をつく。久しぶりの蒸気である。しかも生きているナローの蒸気だ。

奥羽本線の駅から車で走ってきたが、ずいぶん遠いところまで来たと感じ、本当にこのあたりだろうかと心配した矢先、近代的な大公園が見えてきた。あたりはとても東北の田園地方とは思えない程区画整理されていて、おしゃれな家並みが続いている。そこに「いもこ列車」はいた。

それは台湾から持ってきた蒸気機関車で、地元の青年会議所、企業らが整備し、公園に設けられた直線200mの線路の上を、情熱で動かしているものである。

煙突は、今から70年以上前に廃止された谷地軌道の機関車に模して、里芋のような形にしてある。そう、ここにはかつて立派な鉄道が存在したのだ。

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大正5年に開通した谷地軌道は、往時の谷地(今の河北町)の活況を背景にして、現在の河北町中心部から東根市まで蒸気機関車が物資を輸送していた。その機関車の煙突の形が里芋に似ていたので「いもこ」と親しまれていたが、廃止は昭和10年という早い時期のもので、山形県初の私鉄という名誉でありながら、あっけない生涯であった。当時の谷地駅の写真を見ると、国鉄の駅舎と見間違う程の立派な建物で、往時の谷地の底力を垣間見ることが出来る。

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ベルギー生まれで、台湾で働き、今は東北で余生を過ごしているこのカマも、近年は修理で動かない事が多く、今年は久しぶりにその勇士を見せてくれた。地元の方々の努力に感謝したい。

スピードは思ったより出る。甲高い汽笛にビックリしている間に、もう線路の終点まで来ていて、キャブの後ろのスペースに乗っている子供たちも、歓声を上げる暇もないほどだ。

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「大人の方もどうぞ」と、美人の助手さんが声を掛けてくれて、思わず「宜しくお願いします」と乗ってしまった。乗車位置はキャブの真後ろなので、ごうごうと燃える炎が見てとれる。ただでさえ夏の山形は灼熱なのに、中の暑さは想像を超えるものだろう。

5_2007817 真夏の山形の青い空に 吸い込まれていく煙が心地いい。

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走りだすと、爽やかな風が窓を通り抜けて行く。

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80年前の夏もこんな感じだったのだろうか。自分の知らない昔の世界へ、この機関車がいざなってくれる。

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何度も何度も往復して行く機関車。今日一日は特別の日だ。

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来年も再来年もずっとこういう日が来る事を祈っている。

助六

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それはありえない光景だった。

天に突き刺す様に高々と組み上げられた木橋の上を、酒井の引いた運材列車がそろりそろりと渡っていく。伐採された木々の上を縦横無尽に張り巡らされた軌道・・・。始めて木曽森林鉄道助六線の写真を見た時、それらの信じられない光景が目の中に飛び込んできた。鉄道に興味がない人が見てもど肝を抜かれる光景だ。自分もそんな一人だった。しかもその写真は、木曽森が廃止された1975年以後の写真ではないか。

「まだあるかもしれない」

その時からであろうか、それらを求めて各地を歩くようになったのは。

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だが「遅かった」。

生きた助六をこの目で見れた人たちの中に、1960年代以降に生まれた人はほとんどいないだろう。この僅かな時間の差の悔しさが、今でもこれらの光景を追い求め続ける原動力になっているのだが。

あの助六の写真を見た時から何年たっただろう。都心に近い千葉に置かれている木曽森の車両の「助六」の文字を眺めながら、ふとため息をついてしまった。

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もう動くことのない酒井がここに置かれている。回りが静かな林なのがせめてもの慰めだ。

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これらの守り神であるのか、あたりをねぐらにする猫が、自分を追い払う様に近づいて来た。

2007年8月 7日 (火)

擬似地下

軌道と言うと、思い浮かぶ情景が人それぞれによって違うが、草に生い茂った隙間から覗く、錆びてうねったひょろひょろのレールの向こうから、怪しげな機関車がゴトゴトやってくる・・・などと言うものを常に想像してしまう自分にとって、それは望み叶わぬ過去の風景となりつつあるが、せめて動いているだけでもいいから、なにか撮りたいと痛切に思う時がある。

湯の口温泉へ電話したのも、そんな時だった。

「実は工事が入っていて、特別な時しか動かさないんだよねえ、今年の夏も団体が来る時だけだよう。」

既に心は紀州にあったが、日程が合わない。次に行ける日はいつだろうかと手帳をめくっていると、「豊橋にもたしかあったなあ、動かないけれど」と思い出し、スバヤク心を入れ替えて現地へ向かった。

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そこは洞窟に模した壁面の階段になっていて、それを地下に下がっていくと(実際には、建物が傾斜地にあって、斜め下の建物へ行くだけだが)、目の前にニチユの色あせたバッテリーロコが現れる。磨いてはいるのだろうが、塗り直していないロコが好ましい。バックには現役当時の紀州鉱山のモノクロ写真も張ってあり、当時の雰囲気を醸し出している。それにしても小さいねえ。人が乗るのもやっとなくらいだなあ。

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ここ豊橋の地下資源館は、世界各地のめずらしい鉱物類の展示が豊富だが、鉱山軌道関係の展示も数点あって、ニチユ以外の車両も置いてあり、なかなか興味深い。

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展示も、実際の軌道を敷き、本物の車輪の付いたガラスケースが置かれていて、こだわりようはなかなかのものだ。

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ナローの人力車、これはぜひとも一台手に入れたいと思ってしまったシロモノだ。

今回、湯の口へは行けなかったけれど、多小心を癒された時間を過ごすことができたと喜び、擬似地下から上がってきた。「それにしても熱いなあ、地上は」と、夏の燃えるような太陽の下、照り返しの厳しいアスファルトの上を汗だくになりながら、帰り道をとぼとぼと歩いて行くのであった。

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