黒い島
幕末の革命家というと坂本竜馬を筆頭に揚げる人が多いが、明治の世を見ずに、志半ばの33歳の若さで刺客に倒れた。この竜馬のつくった海援隊の負債処理を買って出たのが、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎だ。後の三菱財閥の創始者となる男である。
長崎湾の出口に浮かぶ「高島」は、すでに江戸時代の元禄年間(1695)に、領民の五平太が偶然発見した燃える石をきっかけに、石炭を産出する島とし知られていたが、大規模に掘られるようになったのは明治の時代からで、特に明治14年に岩崎が買収してからは、更なる採炭の近代化が図られた。当時の写真でもわかるが、既に島には軌道が敷かれており、下手な国営鉄道(当時は官営)よりも長い歴史を有していた。
廃止は昭和61年。その歴史よりも、生きた加藤製作所製の機関車が最後に活躍していた軌道と言った方が親しみやすいだろう。自分もその一人だ。そのKATOは、廃止後その地に出来た「高島石炭資料館」に保存された。
いや、保存されていたと言い直したほうがいいだろう。それは今回訪れた時に分かった。既にKATOはなくなっていたのだ。
資料館は開いていたが、関係者がいないので、ここを運営する高島教育センターにその場から電話し、KATOの行方を伺ったが、日曜日だったので事情を知る人も不在で、電話の向こうの女性が方々に当たってくれたが、結局分からずじまいだった。島なので、誰かが引き取って行くには地理的に難しく、解体されてしまったのかも知れない。
バッテリー機関車と坑内人車、給水車、炭車は残っていたので、気を取り直して写すが、はるばるここまで来て・・・という思いは消えず、なんともどっと疲れがでてしまった。
気を取り直して少し島を歩いてみた。軌道は既にどこにも見当たらず、廃墟となった炭鉱宿舎の前面の敷地に、旧式のストーブが無造作に転がっているのみだった。人影もなく、東シナ海から吹き付ける風の音のみが耳をすり抜けていく。
しばらく行くと港とは反対側の海に出た。
「もし坂本竜馬が生きていたら、三菱財閥ではなく坂本財閥になっていただろうなあ。そうしたら竜馬の後世のイメージも変わっただろうし、ここ高島炭鉱も、違った歴史を歩んだのだろうか・・・」と、波で破壊された防波堤の向こうの、軍艦島の廃墟を遠望しながら、とりとめのない妄想に耽るのであった。
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