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「武蔵野炭坑の主」さんの話を聞いて、にわかに安比奈へ行ってしまった。
今日のイチローならぬ今日の安比奈である。
変わらないのが安比奈だ。10年前に来た時とほとんど同じ様に放置されていた。
唯一違うのは、木の根の伸びだろうか。死んだように放置されている軌道に押さえつけられながら、反対側まで伸びてゆく木の根が、過ぎ去りし時間の経過を教えてくれる。
軌道の終点は草むらの中へ消えて行き、あたりはしんと静まりかえっているのみだ。
有名な鉄橋も、草むらの中からわずかに顔をのぞかせている。
線路は残っているが、朽ち果てた枕木がかろうじて張り付いているだけだ。
いつかよみがえると言われている安比奈線は、おそらくそのまま朽ち果てて土に返っていくだろう。
大きな河川の側には必ずと言っていいほど砂利鉄道が敷かれていたものだった。小さい頃、河原で遊んでいると、草むらの中に線路が埋もれているのを見て、家に帰って時刻表の路線図を調べても載っていなかった・・・なんて事もあったりした。
ここ下河原線は、砂利鉄道と言うよりは競馬場線と言うほうが思い出す人も多いと思う。当時はひらがなで書くと日本一長い駅名として「東京競馬場前」駅は知られてた。廃線は昭和51年。東京砂利鉄道としての開業から66年目の事だった。
府中といえば、都心に通勤する人が多く住む住宅地で、近年の開発に次ぐ開発で昔の面影がどんどんなくなっているが、この廃線跡は遊歩道としてすべてが残されており、移動に自転車を使う人にとっては大変便利な道となっている。
ところどころには線路も残されていて、往時が偲ばれる。
現在の武蔵野線から分かれるあたりには、ホームを模した記念碑もあるが、その回りは大型家電店舗等の商業施設が立ち並び、見つけるのは一苦労である。
都内を車で走っている時一番困るのが駐車場である。
止めたい場所の近くををぐるぐる回ってもなかなか駐車出来ず、疲れ果ててしまう事は日常茶飯事だが、ここ萩中公園もそんな所にある。車で移動する事が多いのでいつも後回しになっていた所だ。横の国道は頻繁に通っているのにね。
ここにKATOがいる。
入れ替え機と聞いていたのも後回しになっていた理由だが、実物を見ると結構いい雰囲気だ。KATOというよりMORIに近いと感じたが、まぎれもなく加藤製作所製だ。爪楊枝の様なロッドで大きめの車輪を上下に動かすさまを見たかったが、生まれてくるのが遅すぎた。
キャブも広々として明るい。風で横に転がるのではないかと心配してしまうデザインに心がそそる。
近年まで都電もあったが、撤去されて今は線路が残るのみである。
先週金曜日の話である。
前橋で仕事が終わったのは、あたりが暗くなった頃だった。ふと、雑誌で紹介されていた伊香保軌道の車両が渋川にあるのを思い出し、どのような感じで保存されているのか気になって、帰路とは逆の渋川方面へ向かってみた。
結局それは地元の名士の方の屋敷内にある事が分かり、また別の機会にと諦めて帰ろうとしたが、「渋川駅にもスイッチャーがいたなあ」と、いつの頃の話なのか頭の整理が付かぬまま駅に車を止めた。
「やはりなあ・・・」。ヤードがあった所は線路が寸断されて駐車場になっており、スイッチャーの姿はおろか、一両の車両もない光景が目前にあるだけだった。
数年前まで写真の様なスイッチャーが所狭しと走り回っていたのが懐かしい。
車の窓をオープンにすると、春のさわやかな風が車内を通りぬける。天気のいい利根川沿いの道は心地よい。
「そうだ、このあたりにKATOがあったなあ。ちょっと寄っていくか」と車を向けた。
「ななな、ない」。
周辺に置かれていたエアーハンマーや船舶など、歴史遺産もろともKATOはなくなっていた。
あたりはさら地になっており、解体したそれらの残骸が周辺に置かれていた。
鉄くずと化した残骸の中の「三菱」のマークが痛々しい。
右手後方あたりであろうか。KATOが置かれていたのは。
春の明るい日差しの中、あたりはしんと静まり返っているだけである。
数年前であろう写真を眺めてみた。
以前訪れた時は夕方であたりは暗くなり始めていたが、その時も空だけは青かった。
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